山陰亭

原文|解説|口語訳

『菅家後集』483/『本朝文粋』01:017

慰少男女〈五言〉  少《おさな》き男女を慰《やす》む〈五言〉

衆姉惣家留  衆姉《しうし 》は惣《すべ》て家に留《とど》められ
諸兄多謫去  諸兄《しよけい》は多く謫去《たくきよ》せられたり
少男与少女  少《おさな》き男と少き女《むすめ》とのみ
相随得相語  相随《あひしたが》ひて相語《あひかた》ること得《え》たり
昼餐常在前  昼は餐《く》ふに 常に前に在《あ》り
夜宿亦同処  夜は宿《やど》るに 亦《また》 処《ところ》を同じくす
臨暗有燈燭  暗きに臨まば燈燭《とうしよく》有り
当寒有綿絮  寒きに当らば綿絮《めんしよ》有り
往年見窮子  往年 窮子を見たり
京中迷失拠  京中 迷ひて拠《よりどころ》を失へり
裸身博奕者  裸身《 らしん》にて博奕《ばくえき》する者《ひと》
道路呼南助  道路 南助と呼べり
〈南大納言子、内蔵助博徒。  〈南大納言《なんだいなごん》の子、内蔵助《くらのすけ》は博徒なり。
 今猶号「南助」矣。〉     今猶《なほ》「南助《なんすけ》」と号す。〉
徒跣弾琴者  徒跣《 とせん》にて弾琴《だんきん》する者
閭巷称弁御  閭巷《りよかう》 弁の御《ご》と称せり
〈俗謂貴女為「御」。     〈俗に貴女を謂《い》ひて「御」と為《な》す。
 蓋取夫人・女御之義也。    蓋《けだ》し夫人《 ふじん》・女御《にようご》の義《ぎ》に取るならん。
 藤相公兼弁官、        藤相公《とうしやうこう》は弁官を兼ぬ、
 故称其女也。〉        故《ゆゑ》に其《そ》の女を称するなり。〉
其父共公卿  其の父は共に公卿にして
当時幾驕倨  当時は幾《いく》ばくか驕倨《けうきよ》ならん
昔金沙土如  昔は金《こがね》さえ沙土《さど》の如《ごと》くなれど
今飯無〓飫  今は飯《めし》にすら〓飫《えんよ 》すること無し
思量汝於彼  汝《なんぢ》を彼に思量《しりやう》するに
天感甚寛恕  天感《てんかん》 甚《はなは》だ寛恕《くわんじよ》なり

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解説

 延喜元(901)年9月、大宰府での作です。
 「家書を読む」で述べましたように、道真には大勢の子供がいましたが、昌泰四年の変に際し、成人していた息子4人は地方に護送され、その他の子供達は都に留め置かれました。そうして父員外帥《いんがいのそち》との接触を完全に断つはずが、どういう経緯があったのか、小さい子供2人は大宰府へ連れて行くことを許されたようです。
 しかし何分小さい子供ですから、不自由な生活に対しすぐ不満の声を上げます。そこで道真は、もっと悲惨な実例を引きながら今の境遇がいかにまともなものか語って聞かせたのがこの詩です。もっとも、古体詩を示されて理解できるような年頃ではないでしょうから、より平易な言葉を選んで綴られた虚構と取れなくもありません。

 京都や地方にいる兄弟姉妹とは違い、食事も睡眠も父親と一緒にできる子供達。照明もあれば防寒具もある。それなのにあれが足りないこれが欲しいなどとは言ってはなりません。本当に零落した名家の子女はその程度では済まされないのですから。

 道真の父是善《これよし》(812〜880)とほぼ同世代の人物に、南淵年名《みなみぶちのとしな》(807〜877)がいました。彼は文章生《もんじょうしょう》出身で、式部大輔《しきぶのたいふ》・勘解由《かげゆ》長官・左大弁《さだいべん》・民部卿などを経て従三位大納言に到り、官撰史書『日本文徳天皇実録』や法令集『貞観格式《じょうがんきゃくしき》』の編纂にも加わった文人公卿の一人です。また白居易の故事に倣い、日本で初めて尚歯会《しょうしかい》を開いた人物としても知られています。
 その子南淵良臣は、父親の晩年に従五位下内蔵助《くらのすけ》に任じられました(『菅家文草』10:621)。従五位下は通貴《つうき 》の最低ラインですから、中級貴族として官途を歩むはずでしたが、親に似ず、双六《すごろく》賭博に身を持ち崩してしまいました。このゲームはバックギャモンに似たもので、歴史物語や絵巻にもしばしば登場しますが、賭博性が強いことから、しばしば禁止令が出されていたようです。
 年名が薨去して随分経った頃、道真が良臣に再会したのは、土ぼこりに煙る道路の上でした。「南助(=南淵+内蔵助)」というあだ名に辛うじて過去を留めるものの、上半身裸になって周囲も顧みず道端に座ってサイコロを振る男があの南大納言の息子だとは、にわかには信じがたい光景でした。

 また、裸足で琴を弾いている女性を見掛けたこともありました。世間から「弁の御《ご》(弁官の姫君)」と呼ばれる彼女は、参議藤原氏の娘でした。
 相公《しょうこう》(参議)で弁官を兼任した藤原氏となると、貞観から昌泰(859〜901)までの42年間だけでも氏宗・良縄・家宗・山陰・保則の5名が該当します。道真が「藤相公」と呼ぶことから、参議を極官として対象を絞っても良縄(814〜868)・家宗(817〜877)・保則(825〜895)の3名が残り、決め手を欠きます。あえて挙げるとすれば、参議就任の前年から亡くなる1ケ月前までの7年間にわたって右大弁を兼任していた家宗でしょうか。

 参議や大納言の御曹子や令嬢なら、贅沢な暮らしも当然のこと。しかし父親が死んでしまえば落ちぶれるのみ。昔は黄金さえ湯水のようにあると思えたのに、今や路傍で寝食にも事欠くありさま。彼らを思うと、父親と同じ屋根の下に寝起きできる状況は、決して悪いものではありません。上流貴族としては確かに厳しい生活でも、先例をたどるとまだましだと思えるのです。

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口語訳

幼子達を慰める〈五言〉

数多の姉たちは皆家に残され
大勢の兄たちはほとんどが左遷され(都を)去った
(君たち)幼い息子と幼い娘だけが
(父に)従って(大宰府に下向し、こうして父の)話を聞くことができる
日中は食事するにもいつも(父の)前にいて
夜中は眠るにもやはり(父と)一緒にいる
暗くなれば灯火《ともしび》があるし
寒くなれば綿《わた》がある
昔 困窮する子供を見かけた
都の中 道に迷って身の置きどころもなかった
裸で賭博《 とばく》する者を
道端では 南助と呼んでいた
〈大納言南淵《みなみぶち》(年名《としな 》)殿の子、内蔵助《くらのすけ》(良臣《よしおみ》)は、(身を持ち崩して)博打《ばくち 》打ちとなった。
 (零落したとはいえ)今でも「南助(内蔵助の南淵君)」とあだ名される。〉
素足で琴を弾く者を
世間は 弁の御と呼んでいた
〈一般にお姫さまを「御《ご》」と言う。
 (「御」の字を)夫人・女御の意味に取ったのだろう。
 参議《さんぎ 》藤原氏は弁官《べんかん》を兼任していたので、
 その娘を(「弁の御(弁官の姫君)」と)呼んだのだ。〉
その父親はともに公卿《くぎょう》で
(親が)健在だった頃は (子供達も)どれほど傲慢だったろうか
昔は黄金でさえ土砂のようにあり余っていたのに
今は食事にすら事欠く
君たちを(そんな)彼らと比べると
天の恩は 非常に寛大なものだ

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